高野七口とは

  高野山への入り口は七つあったので、入口およびそこに通じる道、それらを総称して昔から高野七口(こううやななくち)と呼ばれてきました。通常は以下の町石道、黒河道、京・大坂道、小辺路、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道の七つの道を指します。

町石道(ちょういしみち)

紀ノ川南岸の九度山町にある慈尊院から高野山へ上る、高野山参詣道の古くからのメインルート。名前の由来は、1町(109m)ごとに町石が建てられていることによる。町石は高野山上の根本大塔を起点として慈尊院まで180基、同じく山上の奥の院・弘法大師御廟まで36基の計216基が建てられているが、これらは鎌倉時代に、それまで木の道標・卒塔婆であったものを御影(兵庫県)で切り出された花崗岩に建て替えたもので、単なる道標ではなく、町数の上に仏の種字が彫られていて町石自体が一体の仏を表している。

慈尊院から歩けば高野山上まで6~7時間かかるが、途中にある丹生都比売神社からでは4~5時間、矢立からでは2~3時間で上ることができる。

関連情報:http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/130300/nanakuchi.html

黒河道(くろこみち)

黒河道は奈良方面から高野山奥の院へ至る古道で、豊臣秀吉が母・大政所の三回忌の際、歌舞音曲禁止という高野山開創以来の戒めを破って能楽を催したところ、一天にわかに掻き曇り、とどろく雷鳴に恐れおののいた秀吉は単騎、一目散に山を駆け下ったとの逸話が残る道です。

近年通る人もほとんど無くなっていたことから、道の多くは荒れ果て、崩れたり雑草雑木に覆われていましたが、ボランティアグループの活動などで、ほとんどが地道のまま高野山に上れる貴重な古道として復活しています。

起点は橋本市の定福寺で、高野山奥の院まで6~7時間。健脚向きではありますが、途中にある久保小学校(休校中)の桜や太閤坂など独特の魅力を持った歩きがいのある道です。

2016年10月、世界遺産に追加登録されました。

京大坂道(きょうおおさかみち) -不動坂-

京都市八幡を起点とする東高野街道、大阪市平野を起点とする中高野街道、大阪四天王寺を起点とする下高野街道、堺市を起点とする西高野街道、それらが河内長野で合流して高野街道と総称されました。高野街道は橋本市で紀の川を渡り、学文路から高野山に登りますが、この道は江戸時代に京大坂道とも呼ばれ、最も多くの参詣客で賑わいました。

学文路から高野山(女人堂)まで4~5時間、ほとんど舗装された道になっていますが、河根の本陣や千石橋、神谷の集落に往時の風情が色濃く残っています。

また、極楽橋から女人道に至る不動坂は大正時代に新道が出来てから永らく山に埋もれていましたが、最近復活整備され、往時不動坂中の難所とされた「いろは坂」や罪人を突き落としたと言われる「万丈転かし」の現場も見事に蘇っています。極楽橋から女人堂まで約1時間の登りです。

復活した不動坂は2016年10月、世界遺産に追加登録されました。

小辺路(こへち)

小辺路は高野山と熊野(本宮)を結ぶ古道(熊野道)で、町石道と共に世界遺産に登録されています。距離は約80km、伯母子峠、三浦峠、果無峠と三つの大きな山越えをしなければなりませんが、十津川温泉や天空に浮かぶような果無集落、旅籠跡に残る異形の杉の巨木など独特の魅力があります。

高野山からだと標準の行程は伯母子手前の大股、伯母子を越えた三浦口、三浦峠を越えた十津川で宿泊する三泊四日となりますが、バスを利用すれば高野山から1日の行程を楽しむこともできます。

大峰道(おおみねみち)

高野山と修験道の行場大峰山を結ぶ道で、古くから修験者がよく通ったことからその装束にちなみ「すずかけの道」とも呼ばれていました。今は歩く人はほとんどいませんが、昭和の初め頃まで大峰信仰とも相まって参詣者で賑わったと言われていて、街道沿いに残る旅籠と思しき建物や今井集落などに往時の賑わいが感じられます。また、この道は弘法大師が最初に高野山に入った道とも言われ、野川弁財天や一夜不動など大師にまつわる伝説も豊富です。

1日の行程では、五条からバスを利用して、小代下から高野山奥の院まで5~6時間です。天狗木峠までの1kmを除き、ほとんどが舗装された道となっています。

また最近では吉野の金峯山寺と高野山金剛峯寺の共同調査によりこの道とは別に、吉野から山の尾根筋を結んだ道を「弘法大師の道」としてトレイルランおよびウォーキング向けに紹介されています。

有田・龍神道(ありだ・りゅうじんみち)

高野山大門より南へ下る道で、花園で西へ向かう有田道と南へ向かう龍神道に分かれる。

有田道は四国からなどの参詣者が船で有田の北湊に着き、高野山を目指した道で江戸時代には結構な通行量があったといわれているが、現在ほとんどが自動車道となっている。龍神道は南へ向かうと龍神温泉を経て、熊野古道の中辺路ルートに出るが、高野龍神スカイラインにある箕峠(みのとうげ)に至る地道は崩落が激しく、ほとんど通行は不能となっている。

現在、この道を歩く場合は花園(ふるさとセンターねむの木)~大門が一般的で、ほとんどが舗装道路となっているものの、花園寄りの数キロは歩きがいのある地道が残っている。所要時間は4~5時間程度。

 

 

相ノ浦道(あいのうらみち)

相ノ浦は高野山を南へ下ったところに位置し、「紀伊名所図会」に織田信長の家臣、佐久間信盛が追放され住み着いた所と記載されています。高野山中心部から南へ下る国道371号線沿いに西側の尾根を下る、高野七口の中で一番短い古道です。

霊宝館の東側の道を南に行けば、2~3時間で相ノ浦まで下れます。相ノ浦~高野山間は1日数本ですが、有田鉄道のバス(ワゴン車)が通じていますので、時間を合わせれば利用することもできます。

その他周辺の道

三谷坂(みたにざか)

三谷坂は、町石道の起点である慈尊院の西約4kmにある、丹生酒殿神社から丹生都比売神社に登る参道で、町石道より水はけが良かったことから、高野山への道としても平安時代からよく利用されていました。大正時代に丹生都比売神社の官幣大社昇格を伝える勅使が利用したことから勅使坂(ちょくしざか)とも呼ばれました。

途中にある「頬切れ地蔵」が近年、鎌倉期の造作であることが判明して話題を呼びました。その他、弘法大師の風に飛ばされた笠が引っかかっていたという伝説の笠石や、丹生都比売の神様降臨の滝など見どころも豊富です。

最寄りの駅はJR和歌山線妙寺駅、そこから丹生都比売神社まで所要時間は3~4時間です。距離は6km程度ですが、丹生酒殿神社から笠松峠までの2kmはかなりの急坂です。2016年10月、世界遺産に追加登録されました。

麻生津道(おうづみち)

西国街道とも呼ばれるこの道は、江戸時代には和歌山城下から高野山へ参詣する時のメインルートでした。紀ノ川北岸沿いに奈良へ向かう大和街道の高野辻を起点に、紀ノ川を渡り麻生津峠を越えて矢立で町石道に合流します。麻生津峠には大きな茶店が建っていましたが、今はその中に祀られていた「茶湯(ちゃとう)観音」とその部分の建物だけが保存されています。また、麻生津郷から矢立まで六地蔵が建てられているのも江戸時代に参詣客で賑わった証しといえます。

最寄りの駅はJR和歌山線粉河駅または名手駅、高野辻から麻生津橋を渡り、麻生津峠を越えて美嶋温泉のある市峠(バス停)まで所要時間は4~5時間です。(市峠から矢立まで歩くと約2時間、ほとんどが車道となります。)

 

女人道(にょにんみち)

高野山は明治5年まで女人禁制でした。高野七口には女人堂が建てられ、女性はそこから先へは入れなかったので、金剛峯寺境内(山上全体)をとりまくように女人堂を結ぶ道が出来、女人道と呼ばれるようになりました。(現存する女人堂は京大坂道の不動坂口にあるお堂のみです。)

女人道を歩く場合は、女人堂を起点に北側の弁天岳に登り、大門を経て南側に周り、轆轤峠、円通律寺門前、大峰口女人堂跡、中の橋までで約7km、所要時間は3~4時間。高野三山を含め女人堂まで一周すると17km、所要時間は7~8時間。

2016年10月、世界遺産に追加登録されました。

高野三山(こうやさんざん)

高野山そのものは山頂のない高原で、その上にはいくつかの山や丘があり、昔より蓮の花弁になぞらえて内八葉外八葉と呼ばれてきました。外八葉の中で標高が高く、奥の院に近い摩尼山・楊柳山・転軸山は特に「高野三山」と呼ばれています。

標高は摩尼山(1004m)、楊柳山(1008.5m)、転軸山(915m)で、いずれも弘法大師にまつわる伝説が残されています。

高野三山を巡る道は、女人道の一部でもありますが、3時間程度で高野三山だけ一周することもできます。